KTL『V』

ピーター・レーバーグとステファン・オモーリー(Sunn O))))から成るKTLの『V』を聴いている。オモーリーがギター、レーバーグがノイズとのこと。

芥川也寸志『音楽の基礎』

芥川也寸志さんの『音楽の基礎』を読み始める。いきなり無響室や大砂漠の夜の静寂という(精神に異常をきたすほどの)特殊な環境の話から始まり、かすかな音響の存在する日常的な静寂の美の話になり、音楽の美へと話をつなげてゆく感じが良い。

音楽の基礎

静寂と音楽

作曲家は自分の書いたある旋律が気にいらないとき、ただちにそれを消し去ってしまうだろう。書いた音を消し去るということは、とりも直さずふたたび静寂へ戻ることであり、その行為は、もとの静寂のほうがより美しいことを、みずから認めた結果にほかならない。
音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。
- 芥川也寸志『音楽の基礎』、岩波新書、1971年、p.2

料理

Yu Miyashitaさんと「音楽は料理と似ている」という話をする。けっきょく目の前で鳴っている音楽に全てが詰まっている。それ以上でも以下でもない。知識が増えれば味のレパートリーが増え、この味覚にはこの調味料という風に分析できる。単純にそういうことだと思うと彼は言う。

アレック・ソス

私が期待するもの

ある写真作品を他の作品から際立たせているものは何なのでしょうか? 私自身も写真家ですが、数千枚もの写真の中から私の選んだ1枚が他のものと異なっていると思うのはなぜなのか、その理由はいまだに全く謎のままです。ですから審査員として私が求めるものを定量化して説明しようとするのは、誠実とは言えないでしょう。それでは私ができる最善のことはというと、それは私が求めていないことを明確にお伝えすることです。私が求めていない人とは、強い印象を与えようとして、むきになりすぎている人。さらに私が求めていない人とは、自分のテクニックや知性を見せびらかす人です。私が求めていない作品とは、何らかの型にはまっていたりムーブメントにのっていたりする作品です。また、自分自身のスタイルを必死に創り出そうとしている作品も、私が求めるものではありません。

求めていないことをこのように強調すると、ネガティブに見えることでしょう。ですが私の気持ちはまるで反対です。私は写真を愛していますし、写真という媒体が持っている魔法のような性質を守りたいのです。蔭でどんなに努力を重ねようとも、最高の作品とは、ほとんど根拠もなしに現れるものです。私が求めているのは、トリックを仕掛けるのにどれほど時間をかけたかをひけらかすマジシャンではありません。端的に言えば、私が見たいのは魔法そのものなのです。
- アレック・ソス | キヤノン 写真新世紀 2017年度 [第40回公募] 応募案内

中村信夫

ビートたけしが、「どうせわれわれは、あと二、三年経ったら、消えるんだ」みたいなことを、現在の彼の活躍ぶりを相対化した上ではっきりと言います。彼はよくわかっているし、彼の言っていることを、言葉通り受けとった上のこととして聞いてほしいのですが、今、そんなことを言っててもしようがないと思う。一つでも二つでも積み重ねていかないとどうしようもない。日本のアート・シーンはどこにも負けない素晴らしさがあって、何かやると、すぐに打てば響く調子で反応が来る。今日、ニューヨークでやったら、明日は、反対に日本からニューヨークに押し出すような、そのぐらいのエネルギーと力をもっている。でもアート・ワールドはどこにもない。

それでも、シーンとして、アメリカやヨーロッパでも通用しているのは、大袈裟に言うなら、ニューヨークやパリやロンドンでも九十九パーセントはアート・シーンの流れだからです。世代を作ってきた、ヒストリーに残っているアーティストの作品は、50年、60年代以降、70年まで見て行くと、少なくともどこの国のインターナショナルな、大きなエキジビジョンにも入る。殆ど全ての国のメインの美術館が買い上げている。なおかつ、十年経っても、その時期の大きな展覧会があれば、必ずその作品を出してくる。ある程度までの位置づけが可能な作家が、アート・ワールドにいる人間だとするなら、それは本当に一握りにすぎません。
- 中村信夫『少年アート/ぼくの体当り現代美術』(スケール、1986年)、150-151頁

側面

陸前高田は、自分の生まれ育った場所だから、こうやって時間をかけているんです。これは個人的な事情に立脚した仕事ですから、もう写真がどうのというよりもっと言葉、歴史的なものなんですよ。震災以降、僕の作風が変わったという人がいるけれど、けっして作風なんかの問題じゃないんです。美術史がどうとかアートがどうとか、そういうお話と少し次元が違う、そこからはみ出してるような出来事なんですよね。撮影者がテーマを探して撮りに行けるようなものではない。世間で信じられているアーティストの首尾一貫性とか、そんなことはまあ、置いといていいんですよ。だって、何の気なしに撮っていた写真が、母の遺影になってしまうことがあるんですよ。それが写真というものの1つの側面なんです。それを「作風」として語ることは無意味でしょう? 写真という場所は、一枚岩じゃありません。
- 畠山直哉のゆっくり考えるススメ「写真家は過去と付き合う仕事」 – CINRA.NET