具体化

しかしクラックル音やグリッチなどの音は少々食傷気味ですね。ああいう粒子系の音は、最近のエクスペリメンタル・ミュージックのある種の傾向かもしれません。(中略)そういう粒子系の音というのはテクスチャー生成に寄与しますし、ある意味では機能的な音です。そういう音楽的傾向や方法論とは無関係に、自分がイメージする音をどのように具体化するかを考えたいですね。粒子系の音はグラニュラーシンセで簡単につくれますが、手からこぼれ落ちる砂の音をマイクで録った方が、作品により適当な音になるかもしれません。

interview with Takuma Watanabe イマジナリー・ラストアフタヌーン  | 渡邊琢磨 | ele-king

リルケ

あらゆる存在をつらぬいて一つの空間がひろがっている
「世界・内部・空間」が。私たちのなかを通りぬけて
鳥たちが静かに飛んでいる ああ 私が伸びようとして

窓のそとをのぞくと すでに私のなかに一本の樹が伸びている

- (Es winkt zu Fühlung fast aus allen Dingen…、『1913-20 年の詩』: 富士川英郎訳『リルケ詩集』、新潮文庫、1963、p.145)

一音

『怪談』には胡弓だけで、数分間ほど一音だけが続く場面があるんです(第1話「黒髪」のラストシーン)。一音しかないのにものすごい強さなんですよね。いまでも自分でなにかを作るときには常にそのことを考えます。

あれは究極だと思うんですよ。回転を落とした琵琶のビィーンっていう音。あれも一音じゃないですか。一発の音だけで映画音楽としてものすごい効果を生み出している。そのように極端に切り詰められたなかで、強い表現力を出すというのは映画の音楽を書くときの課題だといつも思っています。ただ、並の映画であれをやると音楽のほうが強すぎる。ああいう音を入れられるような映画なんてそうざらにあるものじゃないと思います。

坂本龍一、武満徹との50年を振り返る | Mikiki

デジタル写真

僕にとってデジカメは結果が早すぎる。撮りたいと思った時には、その光景の全てを把握している訳ではないから、撮り損じることも起こります。デジカメの場合、撮った写真をすぐに見れるから、その場で確認して、思った結果でなければ、すぐに撮り直したくなりますよね。でも2度目にシャッターを切る時には、最初の撮りたい衝動は消えていて、感覚的なことよりも図柄が優先されていく。フィルムの場合、すぐには結果が見えないから、いま目のまえにあるものに意識を集中せざるを得ない。今のところ、その撮り方が自分には合っているんです。

それから、フィルムというのは現像とプリントという手順が必要で、ただ撮っただけでは写真にならない。でもデジタル写真は撮ったその場から写真として存在しているし、モニターで見ても、データのまま送っても、プリントアウトしてもいい。フィルムの場合は残り何カット撮影できるかと考えたりするけど、デジカメはそうした物理的制約もない。あとから加工もできるから、撮影の段階ではひとまず撮るという撮り方に誘う。でもそれは撮影時のいろいろな選択を全て保留しているんですよね。ものを作る人というのは、表現手段が何であっても、その都度意思決定をして前に進むところがある。だから、デジカメで何となく撮っておいたものから、いくつかつまみ上げたイメージを並べて、これが私の作品です、と言われると疑問を感じます。

写真家・鈴木理策インタビュー | KABlog | Kansai Art Beat

同一性/同等性

肖像作家の才能とは、同一性(identity)ではなく同等性(sameness)によって写真を撮ることである。同一性(アイデンティティ)の「同じ」が主語に関わる(「私」は「私」であって「あなた」ではない!)とすれば、同等性(セイムネス)の「同じ」は、述語に関わる。裸になれば「同じ」、病気になれば「同じ」、死ぬときには「同じ」、あなたは私と「同じ」だ、と。同一性の写真は、個人のアイデンティティを確定し、尊重する友情とオネスティの写真であり、輪郭=全体像を保全する写真である。同等性の写真は、アイデンティティにお構いなく述語や動詞が「同じ」である事を通じて、相手を自分と「同じ」存在として見つめる。それは正体ではなく、正面に反応する、愛とユーモアの写真である。当然、アイデンティティに囚われた意識にとっては、不快で、タブー侵犯的でもあるが、「肖像」の魅力はそこに由来する。

清水穣 – 54:「沖縄」と「肖像」 — 石川竜一の『Okinawan Portraits 2010-2012』 – ART iT

イメージ

私にとってもはや〈イメージ〉は乗り越えられるべき対象である。私から発し、一方的に世界へ到達するものと仮定され、そのことによって世界を歪曲し、世界を私の思い通りに染めあげるこのイメージは、いま、私の中で否定される。

- 中平卓馬『なぜ、植物図鑑か/中平卓馬映像論集』(ちくま学芸文庫、2007年)、18-19頁

過程

ピアノが弾けなくなる瞬間も、いつかは迎える。死の過程に恐怖を覚えることはないのだろうか?

「怖い。実際、指は……動かなくなってますよ。ピアノもどんどん下手になってきている」

ゆっくりと考えながら、それでもふわりとした答えを見つける。

「……でも、曲想が変わってきている。指が動かなくても成立する音楽になっているかもしれません。きっと、どんどん音が少なくなって、最後に1音になって消えていく……みたいな」

坂本龍一 死を垣間見てわかったのは、意外なことだった (BuzzFeed Japan)

1つの側面

陸前高田は、自分の生まれ育った場所だから、こうやって時間をかけているんです。これは個人的な事情に立脚した仕事ですから、もう写真がどうのというよりもっと言葉、歴史的なものなんですよ。震災以降、僕の作風が変わったという人がいるけれど、けっして作風なんかの問題じゃないんです。美術史がどうとかアートがどうとか、そういうお話と少し次元が違う、そこからはみ出してるような出来事なんですよね。撮影者がテーマを探して撮りに行けるようなものではない。世間で信じられているアーティストの首尾一貫性とか、そんなことはまあ、置いといていいんですよ。だって、何の気なしに撮っていた写真が、母の遺影になってしまうことがあるんですよ。それが写真というものの1つの側面なんです。それを「作風」として語ることは無意味でしょう? 写真という場所は、一枚岩じゃありません。

畠山直哉のゆっくり考えるススメ「写真家は過去と付き合う仕事」 – CINRA.NET

アート・ワールド

ビートたけしが、「どうせわれわれは、あと二、三年経ったら、消えるんだ」みたいなことを、現在の彼の活躍ぶりを相対化した上ではっきりと言います。彼はよくわかっているし、彼の言っていることを、言葉通り受けとった上のこととして聞いてほしいのですが、今、そんなことを言っててもしようがないと思う。一つでも二つでも積み重ねていかないとどうしようもない。日本のアート・シーンはどこにも負けない素晴らしさがあって、何かやると、すぐに打てば響く調子で反応が来る。今日、ニューヨークでやったら、明日は、反対に日本からニューヨークに押し出すような、そのぐらいのエネルギーと力をもっている。でもアート・ワールドはどこにもない。

それでも、シーンとして、アメリカやヨーロッパでも通用しているのは、大袈裟に言うなら、ニューヨークやパリやロンドンでも九十九パーセントはアート・シーンの流れだからです。世代を作ってきた、ヒストリーに残っているアーティストの作品は、50年、60年代以降、70年まで見て行くと、少なくともどこの国のインターナショナルな、大きなエキジビジョンにも入る。殆ど全ての国のメインの美術館が買い上げている。なおかつ、十年経っても、その時期の大きな展覧会があれば、必ずその作品を出してくる。ある程度までの位置づけが可能な作家が、アート・ワールドにいる人間だとするなら、それは本当に一握りにすぎません。

- 中村信夫『少年アート/ぼくの体当り現代美術』(スケール、1986年)、150-151頁

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