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30代で歩けなくなり、車椅子ユーザーになった私にとってずっと疑問だったのは、普通なら「怪我で歩けない=助けなきゃ、不便だろう」となる、それが当然なはずなのに、この日本では気持ち悪い、邪魔、鬱陶しいになるのは、なぜなのか? ということ。

おそらくその答えはアートにある。

この国ではアートといえばせいぜい岡本太郎の言葉でも読むのが関の山といったレベルだろうが、そこが問題なのだと思う。アートとは異質なもの、違和感、言葉にならないものなどを取り扱う代表的な分野だが、私のような障害者はある意味、健常者の人たちからすれば異物でもあるわけで、そのような「Otherness=異質なもの」と接した際に、どのような態度を取るか。知覚を働かせねばならないアートと違い、スポーツ観戦やスマホゲーム、アイドルのXアカウントにコメントを残すなどのみなさんの大好きな暇つぶしからは、どうやったって鍛えられようのない要素である。

ちいかわは礼賛し、アートは敬遠する。そんな精神的おぼっちゃん・おじょうちゃんの国。それが日本だと思う。

ついでに言うならば、言霊(ことだま)ではないが、自分らを健常者と呼び、怪我で困っている・不便を強いられている人らを(それだけの理由で)「障害者」と呼ぶ・カテゴライズする・忌避する、そのメンタリティにこそ、何にも増して魂(たましい)の貧困さが表出しているのではないか、私にはそう強く感じられる。

真逆の考え

音を出す上で、ある程度の緊張感や違和感、強度、ソリッドさ、冷たさといったことを意識しながらやっているのだが、ここのところ真逆の考え方に至っている。すなわち、ゆるさ、だらしなさ、弱さ、ソフトさ、温かさといったものの必要性について。

木の成長を妨げる要素は多いのだけど、ゆえに、木の形態は、それ自体が何らかの不可視の空間を表している気がする。

リルケはこれを世界内部空間と呼んだ。木は、その不可視の空間を人間に予感させる唯一のものであると武満徹さんも仰っていた。

感受

「音楽を聴く」って、その人の発する音をその人自身がどう感じたのか? を追体験する行為でもあるし、それは聴く側の共通感覚の為せる技でもありますよね。制作といってもまずは何かの音にじっと感じ入るところからスタートするわけですし。この「感受する」という部分こそが全ての根幹な気がします。

森の中を歩いているときに聞こえる音のような、ノンリニア(非線形)で、かつ、音一つ一つが呼吸をするように立ち上がるような、そんな音楽を意識的に作ってみたい。どこか矛盾するようだけど、ずっとそんな音楽を夢見ている。

見捨てられた小屋

私の強い執着の一つに見捨てられた小屋というものがあり、2年前から、もはや崩れかけ自然と同化したほったて小屋のような音楽を作りたいと考え続けている。

I have been thinking about this for the past two years and want to make music like an abandoned hut collapsing and assimilating with nature.

生身

もし私がライブのオーガナイズをすることになったら、機材の持ち込みを一切禁止する「生身」というイベントをやってみたい。

Sea Of Solaris

Yoichi Ichikawaさんの『Sea Of Solaris』、とても多くの音階が混じっているような、ウルトラ和音な感じというのか、いくらピアノの音を混ぜても上手く混ざらないのですが、と訊ねたら「鋭いです!」と驚かれて。いくつかの共通する&異なる純正律を交互に使っていて、それら2つの川が徐々に混じって海に注ぐ感じなのだそう。譜面もすごい。

いくつか共通音を持った、7リミット純正率の2つの音階間を、共通音をピボットとして緩やかに行き来しながら、次第に溶け合うように作っています。縦の響きは厳密には和音ではなくてモーダルなクラスターです。「超和音?」と指摘してくださったnzさんの耳の良さに脱帽です。

peeq @n_peeq_t – 10:58 PM · Mar 9, 2023