静寂と音楽

作曲家は自分の書いたある旋律が気にいらないとき、ただちにそれを消し去ってしまうだろう。書いた音を消し去るということは、とりも直さずふたたび静寂へ戻ることであり、その行為は、もとの静寂のほうがより美しいことを、みずから認めた結果にほかならない。
音楽は静寂の美に対立し、それへの対決から生まれるのであって、音楽の創造とは、静寂の美に対して、音を素材とする新たな美を目指すことのなかにある。
- 芥川也寸志『音楽の基礎』、岩波新書、1971年、p.2

アレック・ソス

私が期待するもの

ある写真作品を他の作品から際立たせているものは何なのでしょうか? 私自身も写真家ですが、数千枚もの写真の中から私の選んだ1枚が他のものと異なっていると思うのはなぜなのか、その理由はいまだに全く謎のままです。ですから審査員として私が求めるものを定量化して説明しようとするのは、誠実とは言えないでしょう。それでは私ができる最善のことはというと、それは私が求めていないことを明確にお伝えすることです。私が求めていない人とは、強い印象を与えようとして、むきになりすぎている人。さらに私が求めていない人とは、自分のテクニックや知性を見せびらかす人です。私が求めていない作品とは、何らかの型にはまっていたりムーブメントにのっていたりする作品です。また、自分自身のスタイルを必死に創り出そうとしている作品も、私が求めるものではありません。

求めていないことをこのように強調すると、ネガティブに見えることでしょう。ですが私の気持ちはまるで反対です。私は写真を愛していますし、写真という媒体が持っている魔法のような性質を守りたいのです。蔭でどんなに努力を重ねようとも、最高の作品とは、ほとんど根拠もなしに現れるものです。私が求めているのは、トリックを仕掛けるのにどれほど時間をかけたかをひけらかすマジシャンではありません。端的に言えば、私が見たいのは魔法そのものなのです。
- アレック・ソス | キヤノン 写真新世紀 2017年度 [第40回公募] 応募案内

中村信夫

ビートたけしが、「どうせわれわれは、あと二、三年経ったら、消えるんだ」みたいなことを、現在の彼の活躍ぶりを相対化した上ではっきりと言います。彼はよくわかっているし、彼の言っていることを、言葉通り受けとった上のこととして聞いてほしいのですが、今、そんなことを言っててもしようがないと思う。一つでも二つでも積み重ねていかないとどうしようもない。日本のアート・シーンはどこにも負けない素晴らしさがあって、何かやると、すぐに打てば響く調子で反応が来る。今日、ニューヨークでやったら、明日は、反対に日本からニューヨークに押し出すような、そのぐらいのエネルギーと力をもっている。でもアート・ワールドはどこにもない。

それでも、シーンとして、アメリカやヨーロッパでも通用しているのは、大袈裟に言うなら、ニューヨークやパリやロンドンでも九十九パーセントはアート・シーンの流れだからです。世代を作ってきた、ヒストリーに残っているアーティストの作品は、50年、60年代以降、70年まで見て行くと、少なくともどこの国のインターナショナルな、大きなエキジビジョンにも入る。殆ど全ての国のメインの美術館が買い上げている。なおかつ、十年経っても、その時期の大きな展覧会があれば、必ずその作品を出してくる。ある程度までの位置づけが可能な作家が、アート・ワールドにいる人間だとするなら、それは本当に一握りにすぎません。
- 中村信夫『少年アート/ぼくの体当り現代美術』(スケール、1986年)、150-151頁

側面

陸前高田は、自分の生まれ育った場所だから、こうやって時間をかけているんです。これは個人的な事情に立脚した仕事ですから、もう写真がどうのというよりもっと言葉、歴史的なものなんですよ。震災以降、僕の作風が変わったという人がいるけれど、けっして作風なんかの問題じゃないんです。美術史がどうとかアートがどうとか、そういうお話と少し次元が違う、そこからはみ出してるような出来事なんですよね。撮影者がテーマを探して撮りに行けるようなものではない。世間で信じられているアーティストの首尾一貫性とか、そんなことはまあ、置いといていいんですよ。だって、何の気なしに撮っていた写真が、母の遺影になってしまうことがあるんですよ。それが写真というものの1つの側面なんです。それを「作風」として語ることは無意味でしょう? 写真という場所は、一枚岩じゃありません。
- 畠山直哉のゆっくり考えるススメ「写真家は過去と付き合う仕事」 – CINRA.NET

曲想

ピアノが弾けなくなる瞬間も、いつかは迎える。死の過程に恐怖を覚えることはないのだろうか?

「怖い。実際、指は……動かなくなってますよ。ピアノもどんどん下手になってきている」

ゆっくりと考えながら、それでもふわりとした答えを見つける。

「……でも、曲想が変わってきている。指が動かなくても成立する音楽になっているかもしれません。きっと、どんどん音が少なくなって、最後に1音になって消えていく……みたいな」
- 坂本龍一 死を垣間見てわかったのは、意外なことだった (BuzzFeed Japan)

志賀理江子

なんとなく写真を撮っているだけでは絶対に「歌」に近づけない、もっと具体的に細やかな学びをしなければいけないと思っています。
- 写真は目にしか見えないのか 志賀理江子「Blind Date」 | IMA ONLINE

鈴木理策

僕にとってデジカメは結果が早すぎる。撮りたいと思った時には、その光景の全てを把握している訳ではないから、撮り損じることも起こります。デジカメの場合、撮った写真をすぐに見れるから、その場で確認して、思った結果でなければ、すぐに撮り直したくなりますよね。でも2度目にシャッターを切る時には、最初の撮りたい衝動は消えていて、感覚的なことよりも図柄が優先されていく。フィルムの場合、すぐには結果が見えないから、いま目のまえにあるものに意識を集中せざるを得ない。今のところ、その撮り方が自分には合っているんです。

それから、フィルムというのは現像とプリントという手順が必要で、ただ撮っただけでは写真にならない。でもデジタル写真は撮ったその場から写真として存在しているし、モニターで見ても、データのまま送っても、プリントアウトしてもいい。フィルムの場合は残り何カット撮影できるかと考えたりするけど、デジカメはそうした物理的制約もない。あとから加工もできるから、撮影の段階ではひとまず撮るという撮り方に誘う。でもそれは撮影時のいろいろな選択を全て保留しているんですよね。ものを作る人というのは、表現手段が何であっても、その都度意思決定をして前に進むところがある。だから、デジカメで何となく撮っておいたものから、いくつかつまみ上げたイメージを並べて、これが私の作品です、と言われると疑問を感じます。
- 写真家・鈴木理策インタビュー | KABlog | Kansai Art Beat

ロマン・オパルカ

オパルカは一九七二年以降、新たなタブローをはじめるたびに下地に一%の白を加えるようになる。下地はそのときからほとんど目では見分けられない程度の速度で、黒からしだいに濃いグレーになり明るいグレーのトーンへと変化してきた。老いの速度に似てその変化は微小でも容赦なく、刻々と確実に進んでゆく。普通人生は、生を授かった瞬間のまばゆい明るさから死の暗い闇へとイメージされるものだが、オパルカの作品の時空間はその反対に、闇から真っ白な光へと進行してゆく。
- 岡部あおみ『アート・シード ポンピドゥ・センター美術映像ネットワーク』(リブロポート、1993年)、「ロマン・オパルカ カウンティング・デス」、151-152頁

中平卓馬

写真の意思に沿おうとする自意識をもって自己の向こう側に飛びだし、物を物たらしめている姿をとらえる写真の王道に到達したのである。
- 大竹昭子『彼らが写真を手にした切実さを 《日本写真》の50年』(平凡社、2011年)、「中平卓馬の写真家覚悟」、299頁

同等性

肖像作家の才能とは、同一性(identity)ではなく同等性(sameness)によって写真を撮ることである。同一性(アイデンティティ)の「同じ」が主語に関わる(「私」は「私」であって「あなた」ではない!)とすれば、同等性(セイムネス)の「同じ」は、述語に関わる。裸になれば「同じ」、病気になれば「同じ」、死ぬときには「同じ」、あなたは私と「同じ」だ、と。同一性の写真は、個人のアイデンティティを確定し、尊重する友情とオネスティの写真であり、輪郭=全体像を保全する写真である。同等性の写真は、アイデンティティにお構いなく述語や動詞が「同じ」である事を通じて、相手を自分と「同じ」存在として見つめる。それは正体ではなく、正面に反応する、愛とユーモアの写真である。当然、アイデンティティに囚われた意識にとっては、不快で、タブー侵犯的でもあるが、「肖像」の魅力はそこに由来する。
- 清水穣 – 54:「沖縄」と「肖像」 — 石川竜一の『Okinawan Portraits 2010-2012』 – ART iT

サミュエル・ベケット

以下はフランスの抽象画家タル・コアットを否定する形で吐かれたという言葉なのだが、何となく気に入ったので引用する。東野芳明さんの著書『ジャスパー・ジョーンズ アメリカ美術の原基』(美術出版社、1986年)で知った。

「何も表現することがないという表現、たよれるものが何もないという表現、出発点が何もないという表現、表現する力も表現したいという欲望もないという表現、しかも、絶対に表現しなければならないという強制だけはあるという表現」

─ サミュエル・ベケット