陸前高田は、自分の生まれ育った場所だから、こうやって時間をかけているんです。これは個人的な事情に立脚した仕事ですから、もう写真がどうのというよりもっと言葉、歴史的なものなんですよ。震災以降、僕の作風が変わったという人がいるけれど、けっして作風なんかの問題じゃないんです。美術史がどうとかアートがどうとか、そういうお話と少し次元が違う、そこからはみ出してるような出来事なんですよね。撮影者がテーマを探して撮りに行けるようなものではない。世間で信じられているアーティストの首尾一貫性とか、そんなことはまあ、置いといていいんですよ。だって、何の気なしに撮っていた写真が、母の遺影になってしまうことがあるんですよ。それが写真というものの1つの側面なんです。それを「作風」として語ることは無意味でしょう? 写真という場所は、一枚岩じゃありません。
私が期待するもの
ある写真作品を他の作品から際立たせているものは何なのでしょうか? 私自身も写真家ですが、数千枚もの写真の中から私の選んだ1枚が他のものと異なっていると思うのはなぜなのか、その理由はいまだに全く謎のままです。ですから審査員として私が求めるものを定量化して説明しようとするのは、誠実とは言えないでしょう。それでは私ができる最善のことはというと、それは私が求めていないことを明確にお伝えすることです。私が求めていない人とは、強い印象を与えようとして、むきになりすぎている人。さらに私が求めていない人とは、自分のテクニックや知性を見せびらかす人です。私が求めていない作品とは、何らかの型にはまっていたりムーブメントにのっていたりする作品です。また、自分自身のスタイルを必死に創り出そうとしている作品も、私が求めるものではありません。
求めていないことをこのように強調すると、ネガティブに見えることでしょう。ですが私の気持ちはまるで反対です。私は写真を愛していますし、写真という媒体が持っている魔法のような性質を守りたいのです。蔭でどんなに努力を重ねようとも、最高の作品とは、ほとんど根拠もなしに現れるものです。私が求めているのは、トリックを仕掛けるのにどれほど時間をかけたかをひけらかすマジシャンではありません。端的に言えば、私が見たいのは魔法そのものなのです。
「自分は写真家だ」「自分はこういう作品を作る」と、あらかじめ規定してしまうことで自由が狭まる、というような話を友人とする。展示やトークも単なる作家の活動やコンセプトの補強でしかなくなる。もったいないよね、と友人が言う。
VIVO、コンポラ、ミニマル、コンセプチュアルフォト、ニューカラー、ニュートポグラフィック、ニュードキュメンツ。
私は何一つ知らない。
べつに石を叩いたり木を削ったり絵の具を乗せたりしない写真家は、他のジャンルと違って素材の抵抗に遭ったりそれと格闘して挫折したりすることが少ないので、自意識ばかりが暴走しやすいというのが持論。
専門学校なり大学なりで教育を受けたわけでもなく、また誰かに教育指導を受けたわけでもない。制作費・機材購入費をかけたわけでもなく、他人の作品を買っているわけでもない。このような「投資」を行っていないのだから、当然、見返りもあるわけがない。アートという業界だって社会の一領域である以上、さまざまなしがらみ(人脈や金脈など)がある。そのような人脈・金脈を活かせない限り、私は万に一つもフォトグラファーにはなれないだろう。つまり、金がなければ業界内では生きていけないというわけだ。だから、私はもっと自由にならなければならない。自由になった上で、改めてどう生き延びるか? を考えていくこと。
撮影に♪└(^ω^ )┐♫┌( ^ω^)┘行こうかな♪
↑ ここまでテンション高くないけど…。
ヘルパーさんに「もう写真やめようと思うんですよ」と言ったら「ほら、また始まった!」て笑われた。
なんだろ…毎日見てる病室でも光の具合でまったく別次元に思える…光ありきなのか。