『怪談』には胡弓だけで、数分間ほど一音だけが続く場面があるんです(第1話「黒髪」のラストシーン)。一音しかないのにものすごい強さなんですよね。いまでも自分でなにかを作るときには常にそのことを考えます。
あれは究極だと思うんですよ。回転を落とした琵琶のビィーンっていう音。あれも一音じゃないですか。一発の音だけで映画音楽としてものすごい効果を生み出している。そのように極端に切り詰められたなかで、強い表現力を出すというのは映画の音楽を書くときの課題だといつも思っています。ただ、並の映画であれをやると音楽のほうが強すぎる。ああいう音を入れられるような映画なんてそうざらにあるものじゃないと思います。
死の過程
ピアノが弾けなくなる瞬間も、いつかは迎える。死の過程に恐怖を覚えることはないのだろうか?
「怖い。実際、指は……動かなくなってますよ。ピアノもどんどん下手になってきている」
ゆっくりと考えながら、それでもふわりとした答えを見つける。
「……でも、曲想が変わってきている。指が動かなくても成立する音楽になっているかもしれません。きっと、どんどん音が少なくなって、最後に1音になって消えていく……みたいな」
アート・シーン/アート・ワールド
ビートたけしが、「どうせわれわれは、あと二、三年経ったら、消えるんだ」みたいなことを、現在の彼の活躍ぶりを相対化した上ではっきりと言います。彼はよくわかっているし、彼の言っていることを、言葉通り受けとった上のこととして聞いてほしいのですが、今、そんなことを言っててもしようがないと思う。一つでも二つでも積み重ねていかないとどうしようもない。日本のアート・シーンはどこにも負けない素晴らしさがあって、何かやると、すぐに打てば響く調子で反応が来る。今日、ニューヨークでやったら、明日は、反対に日本からニューヨークに押し出すような、そのぐらいのエネルギーと力をもっている。でもアート・ワールドはどこにもない。
それでも、シーンとして、アメリカやヨーロッパでも通用しているのは、大袈裟に言うなら、ニューヨークやパリやロンドンでも九十九パーセントはアート・シーンの流れだからです。世代を作ってきた、ヒストリーに残っているアーティストの作品は、50年、60年代以降、70年まで見て行くと、少なくともどこの国のインターナショナルな、大きなエキジビジョンにも入る。殆ど全ての国のメインの美術館が買い上げている。なおかつ、十年経っても、その時期の大きな展覧会があれば、必ずその作品を出してくる。ある程度までの位置づけが可能な作家が、アート・ワールドにいる人間だとするなら、それは本当に一握りにすぎません。
- 中村信夫『少年アート/ぼくの体当り現代美術』(スケール、1986年)、150-151頁
大井町にて
大井町で激しい夕立に遭った。様子見でイトーヨーカドーで雨宿りしていたら、背広姿のおっちゃんがわざわざ親切に声をかけてくれた。スマートフォンで雨雲の動きなどを調べて「今が一番激しい時間帯っぽいんだよね」と。あと少しすれば弱まるかもと言うので、もう少しここで待ってみますと一旦別れた。で、新星堂を冷やかしたりして時間を潰し、再度入り口まで行くと、雨は弱まる気配がなく、あーっとなってたら、肩を叩かれ、おっちゃん再登場。もうこれは一気に行ってしまおうと意見が一致し、一緒の傘に入ってザーザー降りの中、駅ビルまで2人で猛ダッシュした。ダッシュしすぎて歩道の段差でつんのめって車椅子から転落しそうになった。それでけっこう濡れたのだが、駅ビルに着くとハンドタオルを取り出して「これ上げるから拭きなさい、後で捨てていいから」と渡してくださり、さらに「声をかけた責任があるから、ついでにエレベーターの場所まで行くよ」と、改札へ通じるエレベーター前まで同行してくれた。何度もお礼を述べると片手を上げて去って行った。後になっておっちゃんに名刺とか渡せばよかったなと後悔したが、こういうのは一期一会なのかも知れん。
3/30
アートの機能って「人間も捨てたもんじゃない」で十分だと思うんだ。
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